W 政府がためらっている理由
しかし、新たに確立された正当性にもかかわらず、資本規制は驚くほど少数の国でしか採用されていない。その理由を理解できるだろうか? 四つの可能な理由が考えられる。政府は以下のような点で躊躇しているのではないか。すなわち、(1)技術的問題、(2)説得力のある証拠、(3)イデオロギー的な原則、(4)アメリカによる政治的反対 、である。これら四つの中でも、最後のものが最も決定的だろう。
技術的問題
まず最初に、政府は技術的な理由で躊躇しているのかもしれない。資本規制が原則として新たな敬意を集めていることと、実際に有効な制限を実施することとは、まったく異なることである。検証責任が転換したことは、この転換が完成したことを意味せず、単に始まりに過ぎない。たとえある種の抑制策に知的な支持がなされても、貨幣の管理が撹乱されずに、全体として見ても、改善されねばならないとすると、重要な実施上の問題がまだ解決されねばならない。中でも二つの決定的な問題とは、どのような資本移動が制限されるべきか? また、どのような規制が最も効果的か? である。これらの問題に対する答えは、私が他で示したように(27)、決して自明ではない。
どのような資本移動を制限すべきかという問題を考える場合、少なくとも三つの基本的区別が重要である。それは、資本移動の方向に関して、資本移動のタイプに関して、またその主体の認定に関して存在する違いである。例えば、資本流出と流入のどちらを、もしくは両方を制限すべきか? 短期的移動だけを制限すべきか、それともより長期の証券取引や、おそらく直接投資も同様に制限すべきなのか? 規制は居住者に対して適用されるのか、それとも非居住者に対してもか? 同様に、どのような抑制策を使うべきか、ということを考える場合も、その適用期間と戦術を含めて、基本的な区別がなされるべきである。また障壁は危機の期間だけ一時的に設けられるのか、それとも恒久的なものか? それらは量的な抑制策か、それともずばり禁止か、あるいは、むしろ、市場の行動を変化させるための税や、課税と良く似た効果を持つ手段なのか? 資本規制を再生するよりも廃棄することが政策目標のすべてであった金融自由化の数十年を経て、政府は自らこの重要な諸問題について再び学び始めたばかりである。
一つだけ例を挙げるために、資本流出と資本流入とを区別する問題を考えてみよう。技術進歩により市場参加者にとって資本規制を回避することは今まで以上に簡単になってしまったから、規制はそもそも機能しない、と多くの者が論じている。それは、アラン・グリーンスパンが、われわれは技術に関して時計の針を逆転させることはできない、と言うときに意味していることである。金融の世界化がもたらしたもっとも致命的な副産物の一つが、最新の情報通信技術に支援された、民間機関と仲介者の膨大なネットワークが形成されたことであり、それによって、可能ならば合法的に、必要と思えば非合法的にも、公的な規制のもっとも厳格な部分でさえ出し抜くことができるようになった。水がそれ自身で水平を決めるように、抑制策は単に圧制的な政府の権威から逃れる新しい方法の探求を奨励するだけであろう。
しかし、これは資本移動のすべてのタイプについて等しく正しいのか? 経験が示すところでは、資本流出に関する限り、エドワーズ(Edwards 1999a: 68-71)の批判は当っている。抑制策が長く維持されればされるほど、もしその影響が次第に失われないとすれば、さらに抑制策を拡大するしかないように思う(28)。荒れ狂う流動性を封じ込めるために、堤防をさらに高く、そして拡張する必要があるだろう。しかし、資本を外に留めておくことは、それを内に押し込めることに比べて明らかに容易であるから、資本流入に関するこうした批判は必ずしも正しくない。資本流出を妨げることは通貨の利用者に可能な選択肢を劇的に減少させ、不満の種をまいて、抜け道をさがす誘因となる。これに対して、資本流入の抑制は多くの選択肢の内のたった一つを制限するだけで、資本はそのまま海外で他の利潤を得る機会を探しつづけることができる。技術的に、資本流入規制は機能しない、と断言することはできない。
まだ、そのような不確実性があるので、政府は利用可能な選択肢を探求するためにより多くの時間を許されているだろう。しかし、3年というのは、強い圧力にさらされる公共政策の論争では異常に大きな遅れであり、危機への対策という意味ではしばしば数時間もしくは数日で判断される。もし政府が真剣に資本移動の新しい制限を考えているなら、当然、今までに何らかの指摘があっただろう。それゆえ、込み入った技術問題への単なる関心以上の、より根本的な何かが、ここに含まれているに違いない、と結論することは公平であろう。
説得力のある証拠
これに代わる説明としては、断定できる証拠が無い、というものである。周知のごとく、危機が始まってから、唯一、マレーシアだけが公式に金融市場の自由化を放棄した。そしてマハティール・モハマドの非正統的な実験はまだすべての結果が示されていない。多くの者にとって、マレーシアは資本規制のテスト・ケースであった。もっと決定的な審判が可能になるまで、他の政府も進んでこれに従うことは無いであろう。
時間は経過しているが、証拠は混じり合っている。一方では、マレーシア経済は危機の最悪の破壊からかなり急速に回復し、クアラ・ルンプール(マレーシア政府)の第一の目的を達成したように見えた。数ヶ月で国内の成長は甦り、輸出と外貨準備が増加し、株式市場も再び上昇した。すべて表面的には、伝統的知識へのマハティール博士の大胆な挑戦が正しかったことを示している。1999年の春までに、首相は投機家たちとの決定的な戦争に勝利したと公然と主張し始めた(29)。その計画が成功したことは、1999年の夏に、モルガン・スタンレー・キャピタル・インターナショナルがマレーシアをその主要なポートフォリオ・インデックスに再び入れたときに確認された。というのも、このインデックスは多くのファンド・マネージャーが、どこに、どれだけ投資するかを決めるガイドとして使うからである(30)。
しかし他方、危機に襲われたその他のほとんどの国も同じ時期に回復し、マレーシアより急速に回復した国もあった。このことは外部の観察者をむしろ消極的な結論に導いている。その典型はエコノミストのリンダ・リンが述べた次の言葉である。
「マレーシアで行われた資本規制は景気回復のために必要ではなく、十分でもなかった、というのが私の意見である。…実際、危機以前のマレーシアの非常に良好なファンダメンタルズと金融制度を前提すれば、その回復は他国よりもさらに速く、力強いものを期待できたであろう。それが生じなかったことは、資本規制が…回復を妨げたかもしれないと示唆している」。(Lim 1999: 2-3)
国際資本が、この地域のタイや韓国といった隣国に再び流れ込み始めたときでも、マレーシアには、当然、大規模に戻ろうとしなかったことは非常に注目された。早くも1999年2月に、資本規制を導入して半年も経たないが、資本の本国送金に関するクアラ・ルンプールの抑制策はかなり緩和され、一層の自由化が1999年9月に予定されている。その目的は、明らかに、この国へ外国投資家を呼び戻すことであった。規制を緩めたことは、勝利ではなく敗北を黙認したのだ、と見る者も多かった。もちろんそれを、マハティールの実験が通貨の市場シェア維持を目指す政府の努力の助けとはならなかった証拠とみなせる。しかし、同様に、最悪の危機状態を脱した以上、緩和は単に論理的な次の一歩である、と理解することもできるだろう。現実には、マレーシアの防衛的な市場維持戦略に関して、判決は出ていない。「マレーシアの回復は、資本規制反対論の間違いを証明したが、その支持論が正しかったことを厳密に証明したわけではない、というのが真実である」とポール・クルーグマンは書いた(31)。
しばしば議論されるチリの資本流入抑制策のように、資本規制を用いた最近の他の実験についても、決定的な判決は出ていない。1990年代初めに増加した資本流入が、チリ政府の国内目標と対外目標との対立を強めた。問題は、輸出競争力を損なう為替レートの変化に起こさせずに、金融引締めをどのように維持するか、であった。官僚たちが考えた解決策は、外国からのさまざまな短期的な借入れ・証券投資を思いとどまらせるために、行政的な介入手段を用いることであった。その中心は、直接投資以外の外国からのほとんどの融資に対する、いわゆる無利子の準備金請求(URR)であった。チリ市場に参加するすべての投資家や貸し手は、一年間、政府の預金として、取引額の一定割合を維持するように求められた。(その割合は次第に上昇して30%に達し、その後は減少して10%になり、1998年、最終的に廃止された。)その預金には利子が付かなかったから、それは実際には浮動的な資本が流入したり、流出したりするのを抑制するために課税することであった。この政策は1998年に大部分が放棄されたが、経済学者は、本当にこの規制がチリの対外債務の満期構成に持続的な影響を与えたかどうか、まだ議論している(32)。
しかし、たとえまだ断定的な証拠が無いとしても、マレーシアやチリの政策に従いたいと思う他の政府が自己を正当化するための積極的な結果は十分に存在している。そのように動いた政府がなかったことは、再び、行動を説明するもっと根本的要因がここに含まれていることを示唆している。